2008年02月26日

「社長と女将の三丁目の夕日」その5





~社長の子供時代③~



私の生まれ育った飯坂温泉は、一昔前は東北一の歓楽温泉郷として名前を馳せたものでした。芸者さんもピーク時の昭和40年頃には200人以上はいたのではないでしょうか。
町中のあちらこちらから三味線や小太鼓の音色が聞こえ、夕方ともなるとお座敷に向う芸者さんたちがカラコロと花下駄を鳴らして大勢歩いていたものです。
実は私の遠縁にも芸者置屋をやっている方がいて、小学生の頃は学校の帰りに時々寄り道をしたものです。家の作りも窓には格子がはめてあり、いかにも置屋さんといった風情のある建物でした。二階に上がりますと大部屋があって部屋の隅々には鏡台が何台もおいてあり、出勤前のお姐さん方がお化粧やら着物の着付けをしていました。私はお姐さん達にも良く「たかちゃん、たかちゃん」と可愛がられ、遊びに行く度にお菓子やジュースをご馳走になった記憶があります。大部屋に漂っていたおしろいやカツラを整える油の匂いも、今は懐かしい思い出となりました。
大勢いた芸者さんも時の流れと共に、一人消え二人消え・・・今ではたった七人になってしまいました。でもご安心を。もし宴会でお姐さん方を呼びたいと思った時は、飯坂温泉にはバンケットコンパニオンさんが結構沢山おり、お座敷を盛り上げてくれますので・・・



2008年2月26日 社長
  

Posted by まちゃき七代目 at 19:40Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年02月25日

「社長と女将の三丁目の夕日」その4





~女将の子供時代②~



私は小さい時も活発な子供だったそうですが、反面とても
こわがりなところがありました。夜道の1人歩きやトイレです。
田園地帯に囲まれ外灯も少なかった昔
近くの雑貨店に行くのに500メートル歩きます。
薄暗くなると誰かが後ろからついてくるような
こわい気持ちになったこともあります。
又、今の家は玄関入って近くにトイレをつくってるところが多いです
が、昔の生家のお便所は
家の中の一番奥の奥のはじにありました(ボットン便所)
窓を開けると先祖代々のお墓が見え
火の玉が飛んでくる気がしてお便所に入るたびに
祖母にきてもらい戸を開けたまま用をたしたことも
記憶に鮮明に残っています。



2008年2月25日 ひでこ女将
  

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2008年02月19日

「社長と女将の三丁目の夕日」その3





~社長の子供時代②~



第1話より、さらに話しが溯ってしまいますが、私(社長)が幼稚園生
だった頃のエピソードをお話しさせて頂きます。
勿論その当時にも学校幼稚園(公立)は、あったのですが何故か親の
都合で私はキリスト教系の私立幼稚園に通わされていました。何が
イヤだといえばキリスト教系なので日曜礼拝があった事なんですよね。



周りの子供たちが日曜日はお休みなのに、なんで自分だけが幼稚園に
行かなければならないんだ、と不満たらたらでした。賛美歌なども
いろいろ歌わされましたが「しゅわきませり、しゅわきませり、しゅわ
あ~きませり」等と言うフレーズなども、何の意味があるのか分からず
に歌っていた記憶があります。それが「主は来ませり」だという事を
知ったのは随分あとになってからのことでした。あとになってから
分かったといえばもう一つ、幼稚園の名前が通称「ばばようちえん」
というところだったのですが、その当時は園長先生が結構な年のおばあ
ちゃんだったので、みんなが「ばばようちえん」といっているのかと
思いこんでいました。実は先生の名字が「馬場」だったんですよね。



家が結構遠かったので、行きも帰りも、今で言うボンネットバスに
乗って通っていました。雨の日も風の日も毎日欠かさずバス停まで
送り迎えしてくれた「ばばせんせい」のやさしい笑顔はいまだに
忘れる事が出来ません。



2008年2月19日 畠社長





●思い出は、ぬくもりの笑顔に包まれて
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Posted by まちゃき七代目 at 20:30Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年02月12日

「社長と女将の三丁目の夕日」その2





~ひでこ女将の子供時代①~



私が生まれ育ったところは、自然がいっぱいの千葉県大原です。
家の後ろの小高い山に登ると、海が見えます。
海から3km離れていましたが、さわやかな風が入ってきて
夏は涼しく、冬は暖かいです。



家の前には小さな川があり、私が小さい時はメダカやフナが
スイスイ泳いでいました。
近所の子供たちと一緒にその小さな川の端から端をジャンプして
飛んだり、鬼ゴッコしたりして遊んだのを覚えています。
(つづく)



2008年2月12日 ひでこ女将





☆七代目より「社長と女将の三丁目の夕日」について☆
このブログは、まさにこれから人生の黄金期をむかえる団塊の世代の方々
に、同じ世代である社長と女将と一緒に昭和の時代の思い出を振り返って
頂きたいと思い企画したものです。絵柄は社長と女将の好きな漫画
「三丁目の夕日」をモチーフにわたくし七代目がゼロから描かせて
いただきました。女将は似てるが社長は頭が薄すぎると怒られましたが
面白いのでこのままでいきます。背景は昭和の吉川屋のパンフレットを
用いました。今後シリーズ化したいと思っていますのでどうぞよろしく
お願い申し上げます。





●野山を走りぬけた、あの子供時代を思い出す
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Posted by まちゃき七代目 at 20:38Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年02月08日

「社長と女将の三丁目の夕日」その1





~社長の子供時代①~



映画「3丁目の夕日 ALWAYSⅡ」が前作と共に大ヒットしているようですが
これは、いわゆる団塊の世代のノスタルジアに大いに共鳴するところがある
からだと思います。
そういう私(社長)も女将も団塊の世代の一人なのです。



昔の事を思い出せば切りも限りもありませんが、この機会に幾つかの思い出
話をさせて頂きたいと思います。 
私は、この穴原温泉の地に生まれ育った人間なのですが、私が子供の頃は
とにかく子供の数が多かったという記憶があります。その原因の一つに、
現在は完全自動化しておりますが、昔から穴原には発電所があり、その当時
は社宅が敷地内にあったため多くの家族がすんでいた、という事もあったかも
しれません。学校が終わると、大勢の子供たちがチャンバラごっこをしたり、
面子をやったり、縄跳びをしたり、どこかの親に早く帰ってきなさいよ~と
大声で呼ばれるまで遊びほうけていたものでした。夕方には子供たちの最大
の楽しみである「紙芝居」のおじさんがやってきて「黄金バット」や「赤堂
鈴ノ助」等の紙芝居を見たりしたものでした。あの頃は今のようにゲーム機
等はなかったけれど、大自然が遊び場で、遊びの種は無限にあったような
気がします。(つづく)



2008年2月8日 社長



☆七代目より「社長と女将の三丁目の夕日」について☆
このブログは、まさにこれから人生の黄金期をむかえる団塊の世代の方々
に、同じ世代である社長と女将と一緒に昭和の時代の思い出を振り返って
頂きたいと思い企画したものです。絵柄は社長と女将の好きな漫画
「三丁目の夕日」をモチーフにわたくし七代目がゼロから描かせて
いただき、背景は昭和の吉川屋のパンフレットを用いました。今後シリーズ
化したいと思っていますのでどうぞよろしくお願い申し上げます。





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Posted by まちゃき七代目 at 20:26Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日