2008年11月05日

社長のつぶやき「ありえない話?」

地元の観光の情報網では右に出るものはいない?
本日はこないだのマラソンに引き続き、社長が自らの足で
リサーチしてきたホヤホヤの情報をお届けします!
それでは畠社長、よろしくお願いします!!



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お久しぶりです、社長の畠です



私鉄の線路をJRの特急電車が走る?そんなのありえないと思うでしょう?
まあ、首都圏などでは良くある話のようですが、なんと福島県内では初のJR
列車の私鉄線乗り入れが実現しました。それも新幹線ができる前は東北本線
を特急として走っていた485系の電車です。
現在、JR東日本では仙台・宮城デスティネーションキャンペーンという観光
キャンペーンを実施中ですが、そのイベントの一つとして今回の特別列車を
走らせる事になったのです。その名を「ぶらりおとぎ街道号」といい宮城県の
仙台駅から福島駅まで阿武隈急行線という私鉄に乗り入れて4両編成で運行
しています。



以前のブログで紹介した事もありますが、昔鉄道少年だった私(社長)はその情報
を知るや、いてもたってもいられず早速取材に行って来ました。本当は列車に
乗って来たかったのですが時間の関係でそれも叶わず、何箇所かで写真に
収めるに留めてきました。



このイベント列車の運行は残念ながらあと3日間しか行われません。
11月の22日(土)、23日(日)、24日(祝日) 
仙台発9:37→福島着11:43 福島発13:11→仙台着15:40の一往復のみです。
途中、保原、梁川、やながわ希望の森公園など8つの駅に停車します。
仙台=福島間は新幹線に乗ればわずか25分で着きますが、秋の休日、のんびり
とアブキュウ(と地元では呼んでおります)の旅を楽しむのもいいかもしれませんよ。







汽笛一声!トンネルを抜けて疾走するイベント列車







阿武隈急行の名の由来となった「阿武隈川」の鉄橋を渡る







あぶきゅう保原駅にやって来ました。







線路に下りて必死の撮影(このあと駅員さんにしこたま怒られました)







ホームではミスピーチと伊達正宗公?がお出迎え







「ほばら」の駅名の裏に停車中のイベント列車 めったに見られない光景です







ここからはミスピーチが運転?まさか??







仙台に向けてGO!







かつての伊達群役所を模して作られた阿武隈急行保原駅
2002年「東北の駅100選」の一つに選ばれました





2008年11月5日 畠 社長  


Posted by まちゃき七代目 at 19:21Comments(3)社長と女将の三丁目の夕日

2008年06月22日

社長と女将の三丁目の夕日19





~社長の子供時代⑩~



最近、テレビのワイドショーやニュースの中で少年雑誌「少年マガジン」
と、「少年サンデー」が来年50周年を迎える、ということが取り上げられ
ていますね。何か50周年を記念して合同で特別な企画があるとのことで
私も興味を持ってみております。



思い起こせば両誌ともに創刊されたのは1959年3月という事なので、私
が9歳の時の事です。(あ、年がばれましたね)創刊当時の値段はマガジン
が30円、サンデーが40円だったそうです。表紙を飾ったのはマガジンが大
相撲の大関「朝潮」(当時)、サンデーは読売巨人軍の「長嶋茂男選手」でした。
私も毎週水曜日の発売日を楽しみにし、むさぼるようにして読んだものです。
マガジンは「巨人の星」や「明日のジョー」などが人気でしたね。一方サンデ
―は、「パーマン」や「オバQ」など、藤子不二夫氏の作品に人気があったよ
うです。



当時の少年雑誌といえば他に、主に中学生をターゲットとした「ボーイズ
ライフ」という月刊誌も人気がありました。それも私の愛読書でした。ボー
イズライフは、どちらかといえば漫画より読み物中心の雑誌で、小説の他に
子供達の興味を呼びそうな人生相談、なぞの宇宙人の解説、ベトナム戦争や
ジャングル奥地に住む部族の冒険写真特集なども多く掲載されていました。



この雑誌の廃刊と前後して小学館から創刊されたのが「ビッグコミック」で
あり、そのあと引き続き創刊されたのが「ビッグコミック・オリジナル」です。
オリジナルには「あぶさん」「浮浪雲」「釣りバカ日誌」など25~30年も連載
されている作品が多く、私のこのブログのタイトルになっている「三丁目の
夕日」もその一つで、作者の「西岸良平」氏のほのぼのとした作風にはいつも
いつも感動させられております。私の青春はビッグコミックオリジナルと共に
あったといってもいいのではないでしょうか



2008年6月22日 社長



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長くご愛顧いただきました「社長と女将の三丁目の夕日」は
次回を持ちまして第一部 完とさせていただきます。
女将の最終回、ぜひ楽しみにしていてくださいませm(__)m
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●さ~よなら~するのは~ つら~いけどぉ~♪
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Posted by まちゃき七代目 at 20:00Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年06月14日

社長と女将の三丁目の夕日その18 6月14日





~女将の子供時代⑨~



◆◇子供の頃の海の思い出 その1◇◆



私が生まれ育った千葉県の大原ははだか祭りで有名なところです



千葉県第二位の漁港で伊勢海老の漁獲量は日本一です
今は海水浴の区域が狭くなりましたが、昔私が小さい頃は
海水浴が有名でした。



夏はよく海に行ったのを覚えています。
母の兄妹が11人なので当然いとこも多いです。
東京からいとこたちが母の実家に集まってきたり私の実家に
集まってきました。母の実家が海に近く三輪トラックで20人くらい
荷台に乗り歩けば15分で行くのに皆でワイワイキャーキャー
車でゆられ海に行きました。砂浜でお家やピラミッド、動物の形
などをつくりました。高い波がくると砂で作った形がくずれ、又
つくるという遊びです



またスイカ割りをしたりビーチボールで遊んだりしました
波がくるのをふわーーと浮くのが最高に楽しく私の両手を
おばやおじが支えてくれて高い波が来るとジャンプするのです



「はーい、きたよきたよ」といってふわーっと浮き上がり波をこえる
たまに鼻の中に海水が入ったり、頭の上を波がきたりおじやおばに
助けられ、いとこたちと海水浴を楽しみました。



小さい時の楽しかった思い出です。



2008年6月14日 ひでこ女将



●楽しい思い出は、夕焼けの向こう
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Posted by まちゃき七代目 at 20:19Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年05月31日

社長と女将の三丁目の夕日その17 5月31日





~女将の子供時代⑧~



◆◇幼い頃の痛かった思い出~その2~◇◆



私と弟は小さい時イビキをかいていたようです。
親戚の人たちが、なぜこんな小さい子供がイビキを
かくんだろう、早くお医者さんに連れていった方が
いいということで大原の駅の近くの病院に連れて
いかれました。



アデノイド(扁桃腺肥大)ということで取ることに
なりました。その先生は軍医をやっていたこともあり
少し荒療治だったのかもしれません。
母に「麻酔をかけるとそれだけで泣くのでサッと取って
しまった方がいい」と話をしていたようです。
「いい子だねぇ、あぁんして、はいもう少し大きくあいて」
先生がおたまのようなものを背中からサッと出して私の
口の中に入れたとたん「ガリッゴリッ」とアデノイドを
えぐり取ったのです。



しかも麻酔をかけずに。



私はギャーと悲鳴を上げて泣き血がドッと出たのを覚えています



母は「良く我慢したね、おままごとの道具を買ってあげるね」と
まだ幼稚園に入る前の出来事でした。



今ではアデノイドの手術を麻酔なしでえぐり取ることは
考えられないことだと思います。



しかし私は今現在もイビキをかいています。
なぜでしょう?



2008年5月31日 ひでこ女将




●イタイことほどよく覚えてる、それが思い出
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Posted by まちゃき七代目 at 19:57Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年05月26日

社長と女将の三丁目の夕日その16





~社長の子供時代⑨~



前回のブログで、子供の頃の遊びの話をさせて頂きましたが、その続編を
少しお話をさせて頂きます。中学生になりますと行動範囲も広くなり、日
曜日や休日などは飯坂電車に乗って福島の市内まで遊びに行くようになり
ました。



いつも行くところは大体決まっていました。「あかい」でアイスクリームを
食べた後、模型の「新光堂」や「せきや」にいってプラモデルを買ったり、
中合の屋上にあった遊園地で遊んだりしたものです。その当時の子供達は
大体同じようなパターンだったのではないでしょうか。そのうち私の興味
はプラモから音楽を聴くことに変わっていきました。そのきっかけになっ
たのは、当時爆発的にブレークした「ビートルズ」との出会いでした。今ま
で聴いたことのない激しいサウンズは当時の音楽文化を大きく変えたもの
です。レコードが聴きたくて親にねだってプレーヤーを買って貰った時の
うれしさは、今でも忘れられません。モノラルのポータブル型でしたが、
私の大事な宝物でした。「プリーズ・プリーズ・ミー」「シー・ラヴズ・ユー」
「ア・ハードデイズ・ナイト」等、お気に入りの曲は、それこそレコード
が擦り切れるほど聴いたものです。そういえば当時のレコードは45回転
のLPが主でしたが、ビニールで出来たペナペナのソノシートなんかもあ
りましたっけ。



そのうち、私の音楽の趣味はだんだんロック系からフォークソングに変わ
っていき、「ブラザーズ・フォア」「ピーター・ポール&マリー」「ジョン・
バエズ」とか、日本の歌手では「マイク真木」等を好んで聴くようになり
ました。そのうち自分でもギターを持つようになり、高校に入ってからは
フォークバンドを結成して、文化祭などで演奏をしたなどというのも青春
のいい思い出になっています。



2008年5月26日 社長
  

Posted by まちゃき七代目 at 21:27Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年05月10日

社長と女将の三丁目の夕日その15





~社長の子供時代⑧~



「遊び」は子供の「仕事だ」などと言いながら、私も子供時代は良く遊び
まわっていました。子供の頃の遊びと言えば定番の鬼ごっこやかくれんぼ
メンコ、摺上川での川遊びや釣りなどがありましたが、何と言っても楽し
かったのは、戦争ごっこでしたね。あの当時テレビで「コンバット」と
言うアメリカの戦争ドラマをやっていたので我々もヘンリー少尉やサンダ
ース軍曹になりきってよく遊んだものです。戦場はたいがい不動寺という
お寺の墓地の中でした。たまには墓石の上によじ登って住職さんに怒られ
た、何てこともありましたっけ。



また、その当時の娯楽の王様と言えば、何といっても映画を見る事でした。
時々親に連れてもらって見に行きました。昔、飯坂町には「旭座」と「温泉
会館」の二つの映画館があり「ゴジラ」や「月光仮面」等の映画を楽しんだ
記憶があります。旭座は今思い返してみるとなかなか風情のある建物
でした。聞くところによると、昔は芝居小屋で、結構有名な役者さんが
来ていたそうです。残念ながらその映画館も随分前になくなってしまい
ました。



映画館が消えていった頃、飯坂温泉にローラースケート場ができ、我も我もと
遊びに行きましたっけ・・・・ピーク時には愛宕山の下と、温泉駅からちょっと
川下におりた所の二箇所にあり、日曜日などは押すな押すなの大盛況
でした。その又隣りには当時としてはは非常に珍しい「熱帯植物園」があり、
結構観光客で賑わっていた時期もありました。正にその頃が飯坂温泉絶頂
の時代だったのかも知れません。
実は、このことは女将の目に止まるとちょっとやばいのですが、私の人生の
中での初デートの場所が、その熱帯植物園でした。私が高校に入ってからの
事です。(もう、時効だからいいですよね??)



2008年5月10日 社長



P.S. 女将も見ると思います。インターネットですから。息子より




●昭和の思い出の写真、お持ちでしたらぜひ見せてください
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Posted by まちゃき七代目 at 20:04Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年04月30日

社長と女将の三丁目の夕日その14





~女将の子供時代⑦~



◆◇幼い頃の痛かった思い出~その1~◇◆



皆さんは自転車乗りはどうやって身につけましたか?
3才頃三輪車に乗りそれから子供用自転車、そして大人の
自転車に乗れるようになったという人は多いと思います。
では誰が乗れるように教えてくれましたか?
親、兄、姉、親戚と様々だと思いますが
私は自転車に乗れるようになった小学校の頃をよく覚えて
います。



子供用三輪車で庭をぐるぐるまわって遊んでいた幼児期
斜めになっても倒れないように補助輪がついていた子供用自転車
そしていよいよサドルの高い自転車(足はつかない)をとなりの
家のお兄ちゃんが教えてくれたのです。



毎日来てサドルの後ろを押さえて少しペダルを私がまわすことが
できるようになると手を離して、上手上手とほめてくれてどんどん
手を離されてもペダルを踏めるようになりました。
左足で何回か漕ぎそのはずみで右足を大きくまわしサドルの上
からもってきて座りこぎはじめる。



だんだん自転車にうまく乗れるようになったので嬉しくなり
少しスピードを出し走ったところ、私道の脇の田んぼの中に
まっさかさまに落っこちてしまいました。
8月でまもなく刈り入れの時期せっかくのお米をグシャグシャ
にしてしまいました。



身体はあちこちキズだらけ、母に怒られ一緒にそのお宅に謝りに
行ったことを覚えています。自転車に乗れるようになる時期
皆さんは失敗談はございませんか?今はほとんど自転車に乗る
機会はなくなってしまいましたが、乗れるように教えてくれた
となりのお兄さんに今でも感謝しています。



2008年4月30日 ひで子女将





●感謝の記憶は、時がたっても色褪せない
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Posted by まちゃき七代目 at 19:24Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年04月20日

社長と女将の三丁目の夕日その13





~社長の子供時代⑦~



前回のブログで、吉川屋の「新婚旅行」ブームのお話をさせて
頂きましたが旅館商売をしていると、時々有名人の方にご利用
頂く事があります。もちろん現在でも、いろいろな方にご利用
頂いておりますが、昔、私が子供の頃に来て頂いた時のエピ
ソードを幾つか、細々とした記憶の中からご紹介したいと思い
ます。



いずれも詳しい記録もないので時期を特定はできないの
ですが、まあこんな方がきた時、こんな事があったという程度に
聞いてください。



歌手の大御所「美空ひばり」さんがおいでになった時は、真っ赤な
ベレー帽が印象的でした。その時は体調がすぐれなかったのか、
付き人におんぶされてホテルの玄関を入ってこられました。
ひばりさんは小柄なので、一瞬分からず子供がおんぶされてきたのか
と思ったぐらいです。



又、福島で大相撲の巡業があった時に、私共に横綱「大鵬関」
お泊まりになりました。ちょうどその時女子高の修学旅行生も、
泊まっていたのですが、玄関から大鵬関が入ってこられた時には、
黄色い大歓声が館内中に響き渡ったのを覚えております。
実は私自身も大鵬関に抱きかかえられて写真をとってもらいました。



又、プロレスの巡業があった時は、うちが外人プロレスラーの配宿場所
になり5~6人の覆面レスラ―が、やってきました。当時悪役レスラー
として人気の「フレッド・ブラッシー」もいたのですが、皆リングの
上とは打って変わってとても気さくな人でした。片言の英語で、サイン
をねだったのを覚えております。



大物俳優の「小林 旭」さんが来られた時には、夜お忍びで飯坂の町に
出たいと言い出されて、周りの人達がてんやわんやの大騒ぎになった、
何てこともありましたっけ?



あの当時、有名人が泊まりにきた時の事をクラスのみんなに鼻高々で
話すのは子供ながらにとても気分のいいものでした。



2008年4月20日 社長



~七代目より~



社長の思い出話は40~50年前の時効の話でして、当然宿泊業として
すべての方のプライバシーを厳重に管理しております。また、これは
私が聞いた話ですが昔漫画の神様といわれる「手塚治虫先生」もお泊り
になったことがあるそうです。サインくらい残っていれば・・・と思い
ますが、私が漫画を描くようになったことと無縁ではないかもしれませんね
・・・なんて言ってみたり(^_^)





●歴史は、思わぬ宝を擁する玉手箱
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Posted by まちゃき七代目 at 20:58Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年04月13日

「社長と女将の三丁目の夕日」その12





~女将の子供時代⑥~



皆さんも「おばあちゃんの知恵」を頂き助けられたことが
きっとあることと思います。
転んだりぶつかったりして泣くと「痛いの痛いの飛んでけーッ」と
私も自分の子供たちに言っていたのは、母や祖母からの教えでした。



私は生後10ヶ月の頃肺炎にかかったそうです。
近所の人が鯉の生き血を飲ませると良くなると言って、
生きた鯉に針を刺し口の中にたらしたそうです。
その時は一向に良くならずもう危ういと云われたそうで、
医者からアメリカからの薬で注射器一本2,000円するが
(当時ではとても高いもの、確かペニシリンとか
今のお金にすると数万円でしょうか)どうかと言われ
母の父がどんなに高くてもいいから命を助けてくれと
医者に頼み朝晩注射を打ちに数日来て、肺炎が治ったと
母から聞かされていました。



よく風邪も引いたようでその度におばあちゃんがくず湯を
飲ませてくれてガーゼの中にネギを入れ首に巻いてくれた
ようでした。
それから、「ものもらい」ができた時、柘(つげ)のくしを
畳にこすって熱くしその熱いところを目にできたものもらい
に当てると不思議に治ってしまったこともありました。



昔に、母や祖母たちから教えてもらったこういうおまじないの
ような、でもたまに効く“知恵”を私は覚えていて、息子(七代目)
が高校受験の時高熱を出し、病院の解熱剤もきかずすぐ又熱が
上がってしまった時、当日の朝、雪ノ下(薬草)をすってガーゼで
絞りその汁を朝飲ませたところ、午後から少し熱が下がりおかゆも
のどを通ったということもありました。



色々書きましたがこれらのことも代々伝えられてもいいのではないか
と思います。



2008年4月13日 ひでこ女将




●伝えられる、先人の知恵・・・吉川屋公式HPはコチラ(PC)  (モバイル)  


Posted by まちゃき七代目 at 19:50Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年04月06日

「社長と女将の三丁目の夕日」その11





~社長の子供時代⑥~



前に、飯坂温泉の芸者さんの話をした事がありますが、それこそ
昭和30年代は、飯坂温泉にとって戦後の絶頂期を迎えたのでは
ないかと思います。何故かといいますと昭和34年に、全国でも
初の山岳有料道路「磐梯吾妻スカイライン」が開通した事が
大きく起因しているのだと思います。



私どもの旅館にも全国から団体さんが沢山やって来ました。
団体さんの大方は観光バスでやってきていましたので、
いろいろなバス会社の色とりどりのバスを眺めるのも楽しみの
一つでした。



夜になると芸者さんをお座敷に呼んでの大宴会が毎晩のように
続き、うるさくてとても勉強どころではなかったような思い出
もあります。



また、昭和30年頃は「新婚旅行」という新しいジャンルの
旅行が生まれた時期でもありました。私どもの先代もブームを
見越して、当時では珍しい一部屋の中に和室とベッドルームが
ある「和洋室」を何室か作ったところ、それがバカ受けとなり、
吉川屋と言えば「新婚初夜の宿」というブランドを確立した
ものでした。あの頃はまだ誰でも自家用車を持てるような時代
ではありませんでしたから、新婚旅行も列車で福島駅まで来て、
そこから定期バスに乗り換えて穴原温泉までやってきたものです。



大安の日などは、バス停にバスが到着すると満杯のお客様が
ぞろぞろとバスを降りてくるのですが、そのすべてが新婚
カップルだった、という事もありました。



私が家業を継ぐために戻ってきた頃、よくお客様に
「新婚旅行はお宅にお世話になったんだよ」
と言う言葉をかけて頂きましたがさすがに最近は少なく
なりました。それはそうですよね、あの時代からもう50
年も経っているのですから・・・・



2008年4月6日 社長




~七代目より~
話に聞くところによると今から50年以上前、時代の最先端の
「源泉掛け流し露天風呂付き客室」があり、それも新婚旅行
ブームに拍車をかけたみたいですね。あまりに時代の先を
行き過ぎた当時の吉川屋・・・^^;
いまは、贅沢感のある露天風呂付き特別室が2室あります。
新婚さん、お待ちしてますよ☆





●ベビーブームの頃は大変お世話になりました
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Posted by まちゃき七代目 at 19:58Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年03月29日

「社長と女将の三丁目の夕日」その10





~女将の子供時代⑤~



ベビーブームに生まれた私は近所の遊び友達が多くいました。
小学校低学年の頃は学校からまっすぐ帰らず寄り道、みちくさが
常でした。家に帰るといつの間にか多くの友達が集まっていて
庭に石ころで線を引きドッジボールをやったり、メンコやビー玉
遊びもよくしました。



庭に大きなしいの木があり、木のまん中に人が1人入れるような
穴がありましてその中に入ってかくれんぼをしたり、そこから
飛び降りたりして、ケガもなく遊んでいたのを覚えています。



今もそのしいの木が残っていて、実家に帰ると母に「私小さい時
よくこの木に登ってたわよね」と言って、昔を懐かしんでいます。
良い思い出です。今は子供の数も少なくなってますし、テレビ
ゲームなどの遊びも多く自然と遊ぶことが少なくなってきましたね。
少し残念な気がします。



2008年3月29日 ひで子女将





●自然から学び、すくすく育つ。自然の多い穴原温泉
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Posted by まちゃき七代目 at 21:11Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年03月22日

「社長と女将の三丁目の夕日」その9





~社長の子供時代⑤~



私が小学生の頃は、まだ国鉄(今のJR)の主役は蒸気機関車でした。
発車する時のあの力強い動輪の動きや煙突から噴出す煙の匂いなどは、
いまだに私の記憶の中に鮮明に残っています。私の住んでいるところ
から国鉄の線路までは一番近いところでも5~6kmはあったでしょうか?
でも夜になって周りが静かになると摺上川の鉄橋を渡るガタンゴトンと
いう車輪の音やポーーッと何気に物悲しいような汽笛の音がよく聞こえ
てきたものです。



福島の駅からは、チンチン電車が走っており福島から伊達を経由して
湯野や保原、梁川の方まで線路が延びておりました。勿論その頃飯坂温泉
と福島駅を最短で結ぶ「飯坂電車」も走っておりましたが、わざと湯野
から遠回りでチンチン電車に揺られながら福島の町へ遊びに行ったり
した事もありました。大人になったら絶対に電車の運転手になろう、と
心に決めていた時期もありました。いわゆる鉄道マニアだったのです。



蒸気機関車もだんだん姿を消し、ディーゼル車になり、福島にも電気
機関車が走るようになった頃、こんな出来事がありました。東北本線に
初めての451系電車列車(電気機関車が客車を引く形ではなく)が登場
した時の事です。記憶に間違いがなければ「準急みやぎの」だったと思
うのですが、どうしてもその始発電車に乗りたくて親に黙って仙台まで
乗って行ってしまったのです。まだ中学生になったばかり?の頃でした。



戻りが夜になってしまって帰宅したら家中がてんやわんやの大騒ぎに
なっていました。家出したのではないか、はたまた誰かに誘拐されたの
ではないかと警察に捜索願を出す一歩手前だったそうです。似たような
シーンが映画にもありましたっけね?



勿論の事、大目玉をしっかりと頂きました。




2008年3月22日 社長





●昭和の面影、語りあいませんか?
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Posted by まちゃき七代目 at 20:57Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年03月17日

「社長と女将の三丁目の夕日」その8





~女将の子供時代④~



小さい時イモ虫を踏んづけたからか、遺伝なのか(母も苦手)
わかりませんが私は、ヘビやトカゲなどを見ても鳥肌が立ちませんが
(棒で振ったりも平気なのに)毛虫やイモ虫が大の苦手です。



今でもです。こんな夢を見たことがあります。水のない井戸のような
中に私が落ちてしまってイモ虫の上に体が乗ってしまい虫の中に
埋まってしまったこと。
虫が嫌いだと葉っぱについているのを見つけるのも早いのです。



主人は何でそんな小っちゃな虫が苦手なのか不思議がっています。
台所でトウモロコシの中に白い虫が入っていることがよくあります。
だから今でも皮は、自分でむけません。



小学生の頃学校の帰り道を歩いていてムギュッと踏んづけた時
つぶされた状態になったイモ虫を見て悲鳴を上げたのを覚えています。
その事が、私のトラウマになっているのでしょうか?



2008年3月17日 ひでこ女将



(七代目より追記)
ちなみに、家族全員で苦手な虫が違うのが面白いです。
上記の通り女将は毛虫、イモ虫が苦手、社長はクモが苦手、
姉はゲジゲジが苦手、弟は蝶が苦手、わたしはハチが大の苦手です。
これも個性(?)なんでしょうかねぇ~(^_^)





●自然が多いと虫も元気です!でも旅館の中は快適♪
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Posted by まちゃき七代目 at 19:22Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年03月09日

「社長と女将の三丁目の夕日」その7





~社長の子供時代④~



小学生になってからの思い出の中でこんな事もありました。
今でこそこんな制度はありませんが、昭和30年代には学校の先生が
交代で「宿直」をする決まりがありました。確か用務員さんという人もいて
泊り込みで学校の建物の管理もしていたとは思いますが、それとは別に
先生も何日かに一度は泊り込みで夜警の仕事などをしていたようです。



昔は今ほど教育委員会もうるさくなかった?ので「合宿」と称して担任の
先生が宿直の時は気の会った仲間と学校に泊まりに行ったものでした。
食事は弁当を持ち込んだのですが用務員さんに暖かい味噌汁を作って
もらってフーフー冷ましながらおいしく頂いた記憶があります。



勿論2時間ぐらい先生に勉強を教えてもらったのですがその後は肝試しを
やったりして結構楽しく遊ばせて貰いました。当時の校舎は木造の二階
建てで、廊下を歩くとギシギシ音がするような年代モノの建物で人体模型が
ある理科室に行くのは、それはそれは怖い体験でした。また(もうとっくに
時効なので白状致しますが)先生が通勤用に使っていた車「ミゼット」か
なんかだったと思いますが、先生から鍵を借りて校庭をグルグルと乗り回した
事などもありました。



それこそ親が聞いたり校長先生の耳に入ったらとんでもない事だと怒られる
所ですが、とても懐の広い先生でのびのびとやりたい事をさせて頂きました。
遊びたいだけ遊んで学校で迎える朝もなかなか爽快なものでした。



2008年3月9日 社長




●思い出す、昭和の懐かしい記憶
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Posted by まちゃき七代目 at 22:25Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日

2008年02月27日

「社長と女将の三丁目の夕日」その6





~女将の子供時代③~



私の母は11人兄弟、父は4人兄弟でした。
母が長女で20才の時に私は生まれました。
母の一番下の妹(叔母)と私は7つしか年が違いません。
そういう状況で叔父や叔母に妹のように可愛がられ
お人形さんをいじるようにいつも髪を三つ編みやポニーテール
など色々なスタイルにしてもらってました。



夏休みの友や冬休みの友などはお陰で教えてもらうことが
でき休みに入ったとたん仕上げてしまい夏友、冬友の
心配なく存分遊んだ記憶があります。
トランプの神経衰弱が私は得意でいつも勝っていました。
一瞬のうちに何がどこにおかれていると覚えこませるのが
得意とするところでした。結婚した頃主人に私の記憶力は
すごいわと褒められましたが年とともに今は忘れることも
しばしばです。



2008年2月27日 ひでこ女将


  

Posted by まちゃき七代目 at 20:21Comments(0)社長と女将の三丁目の夕日